試論 Ⅰ-1

スピッツが普遍的なイメージの荒野に「はぐれ者」としての自己を投影し、サカナクションが都市社会の中で喪失したアイデンティティを求めて懊悩するこの世界で、相対性理論は時間と空間を自在に行き来する現世のマエストロとなった。

アーティストの黎明期の作品が結果として最も高い評価を得ることが多いのは、彼らの音楽に対する初期衝動がきわめて象徴的に描かれているからであろう。彼らはその象徴的な衝動を、イメージを、その後時間をかけて純化させ、文字通り変奏していく。こうした点において相対性理論も例外ではない。1stアルバム『シフォン主義』は「スマトラ警備隊」から始まる。

 

やってきた恐竜 街破壊

迎え撃つわたし サイキック

更新世到来 冬長い

朝は弱いわたし あくびをしてたの

                                      

一行目の歌詞からそのイメージは、現実からはるか遠くに現前する。ジュラ紀の恐竜と現代の街、軽く1億年はある年月を当然のように超越した世界で、「わたし」は恐竜を迎え撃つ。ここまでで現代の街に恐竜が迷い込んできたのかと空想していると、そこはそのほとんどが氷河期だった「更新世」だと判明する。「わたし」は朝に弱くてあくびをしているようだからおよそ人間だろう。恐竜がやってきた更新世の街と、そこにいる「わたし」。時間感覚があまりに錯綜したイメージがそこには広がっている。

 

飛んでったボイジャー 惑星破壊

なすすべないあなた サイコパス

環状線渋滞 先長い

待つのつらいわたし ゲームボーイしてたの

 

二番では、イメージは地球を脱出して宇宙へと向かっていく。「ボイジャー」はNASAによって打ち上げられた無人惑星探査機で、異星人に向けたメッセージとして地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が収められたゴールデンレコードを搭載していることで知られている。「わたし」は渋滞に巻き込まれてのんびりゲームボーイをしているというのに、ボイジャーになすすべない「あなた」のことを「サイコパス」呼ばわりする。人間ならなすすべないことなど当然なのに、依然として人間らしい描写が続く「わたし」の一方で「あなた」は何者なのだろうか。なにか宇宙規模の、人外の存在なのだろうか。このようにして謎が謎が呼びながら、世界は地球と宇宙を行き来し、混乱をきわめていく。

しかし冒頭でも述べたように、こうした時空間の錯乱したイメージは『シフォン主義』以後の作品においても繰り返し現れる。彼らはそういったイメージをあまりになんでもないように、私たちの前に出現させる。特に空間に対する彼らのまなざしには、地球と惑星、ひいては宇宙を等価に、つまり同じスケールで描いてしまう恐ろしさがある。宇宙に手が届くんじゃないかとか、惑星一つくらいなら自分の手で動かせるんじゃないかとか、そういう悲しき幻想を、私は彼らの前でなら夢見てしまう。