例えば倉庫では

バイトの時間を持て余している。その日届いた荷物を社員に確認を取って仕分けるという業務内容なので、午前の配達が来ない限り、前日からの引き継ぎがない限り、そして社員が現れない限り、しばし空白の時間が訪れるのだ。僕たちアルバイトは10時に業務開始だというのに、大半の社員は正午過ぎくらいからポツポツとやってくるし、逆に朝からちゃんといる社員は17時くらいにはもう帰ってしまっている。いわゆる「業界」の人間というのはそういうものなのだろう。

 

そういえば3月2日、秋学期の成績が返ってきた。内容はと言うと可もなく不可もなくだと思う。興味のある授業はそこそこに吸収できたつもりだし、逆に興味のない授業は単位を落とさないギリギリのラインを死守できた、それが目で見て分かるような成績だった。そもそもGPAという制度に対する欺瞞が入学当初からあるのでなるべく気にしたくないのだが、自分を数値化されることにはどうも敏感になってしまう。A +を4個、Cを5個取る人間もいれば、Aを7個取る人間もいるわけでそれが同じ数値に収束するシステムに信頼できるはずがない。そう思いながらもしぶしぶ成績表を眺めていると、一月前の期末期間を思い出していた。本当にレポートが書けなくて困った。発想云々も勿論問題なのだが、それ以上に文章が書けない。その文で自分が言いたいことがいくつかあって、それを順接とか逆接とかを計算した上で整えて分かりやすい一文にする、この過程があまりにも踏まなくなってしまっていることに気づいた。結局その場では時間がないことを言い訳にしてノリで逃げ切ってしまえたのだが、これはかなりショックだったし、春学期の期末期間も同じ理由で発狂寸前になっていたことを思い出した。個人的な感覚では、一年の時はそこまで病むほど文章を書くことに難儀していなかった気がする。そこには何を言うべきなのか、何を言わないべきなのかという分別の解像度のレベルの違いがあることは否めないが、多分それだけの話ではない。おそらく自ら文章を書く機会が格段に減っていることにある。そもそも文章は言葉のコラージュみたいなものなので、全くとして新しい文章みたいなのは存在しにくい。だから僕たちが書く・話す言葉は基本誰かの受け売りだしそれはそれでいいはずだから、何かを読むことでそこから言葉を獲得して、自ら何かを書く経験をしている。僕の場合、読む文章が減ったという感覚はない(そもそも多くないし)。一方で何かを書く行為が減ったという感覚はある。素材としての言葉を手に入れることができたとしても、それをつぎはぎした完成形としての文章を作らなければ文章は突然書けないんだなということを改めて学んだ。僕が書き記すことをはじめた理由の一つはそこにある。「書くために書く」、今の自分にはそれを繰り返す必要がある。