ない

三年前の下書きを見つけた

そこには金木犀の散った花がまるで星屑の海のようだと

心を奪われている自分がいた

今は目の前に落ちている金木犀の花はただの花だ

 

二年前の投稿を見つけた

そこには秋が終わる頃の枯れ木の立ち姿を見て

寂しくなっている自分がいた

今家の外から見える枯れ木はただの木だ

なんでもない

 

去年の日記を見つけた

そこにはとうの昔に流行りを過ぎてしまったバンドのスローなラブソングに

言葉が迷子になるほどの憂愁を感じている自分がいた

今聴くそのラブソングはプレイリストの中のただの一曲だ

良い曲である

ただそれ以上の感情はない

 

自分のポエジーを大切にすることができない

大きな感動を覚えた その感覚をどうにか言葉にしようと使える言葉を尽くそうとしたいくつもの過去が

今自分の手元にはもうない 

あったことさえ定かではない

 

ではあの時の感情は 

言葉にせずにはいられなかったポエジーは嘘だったのか?

 

違う

それはたしかにあった

 

私は否定してしまう

私は私のポエジーを 私によって拒否してしまう

あの時動いた心は それを表明するために選ばれた言葉たちは

すべて今の私が取り消してしまう

そうして揺れ動く心に見放され

意味を持つ言葉たちに逃げられて

私は孤独になる

 

今目の前には何が見えるか

今ポエジーはどこにあるのか

試論 Ⅰ-1

スピッツが普遍的なイメージの荒野に「はぐれ者」としての自己を投影し、サカナクションが都市社会の中で喪失したアイデンティティを求めて懊悩するこの世界で、相対性理論は時間と空間を自在に行き来する現世のマエストロとなった。

アーティストの黎明期の作品が結果として最も高い評価を得ることが多いのは、彼らの音楽に対する初期衝動がきわめて象徴的に描かれているからであろう。彼らはその象徴的な衝動を、イメージを、その後時間をかけて純化させ、文字通り変奏していく。こうした点において相対性理論も例外ではない。1stアルバム『シフォン主義』は「スマトラ警備隊」から始まる。

 

やってきた恐竜 街破壊

迎え撃つわたし サイキック

更新世到来 冬長い

朝は弱いわたし あくびをしてたの

                                      

一行目の歌詞からそのイメージは、現実からはるか遠くに現前する。ジュラ紀の恐竜と現代の街、軽く1億年はある年月を当然のように超越した世界で、「わたし」は恐竜を迎え撃つ。ここまでで現代の街に恐竜が迷い込んできたのかと空想していると、そこはそのほとんどが氷河期だった「更新世」だと判明する。「わたし」は朝に弱くてあくびをしているようだからおよそ人間だろう。恐竜がやってきた更新世の街と、そこにいる「わたし」。時間感覚があまりに錯綜したイメージがそこには広がっている。

 

飛んでったボイジャー 惑星破壊

なすすべないあなた サイコパス

環状線渋滞 先長い

待つのつらいわたし ゲームボーイしてたの

 

二番では、イメージは地球を脱出して宇宙へと向かっていく。「ボイジャー」はNASAによって打ち上げられた無人惑星探査機で、異星人に向けたメッセージとして地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が収められたゴールデンレコードを搭載していることで知られている。「わたし」は渋滞に巻き込まれてのんびりゲームボーイをしているというのに、ボイジャーになすすべない「あなた」のことを「サイコパス」呼ばわりする。人間ならなすすべないことなど当然なのに、依然として人間らしい描写が続く「わたし」の一方で「あなた」は何者なのだろうか。なにか宇宙規模の、人外の存在なのだろうか。このようにして謎が謎が呼びながら、世界は地球と宇宙を行き来し、混乱をきわめていく。

しかし冒頭でも述べたように、こうした時空間の錯乱したイメージは『シフォン主義』以後の作品においても繰り返し現れる。彼らはそういったイメージをあまりになんでもないように、私たちの前に出現させる。特に空間に対する彼らのまなざしには、地球と惑星、ひいては宇宙を等価に、つまり同じスケールで描いてしまう恐ろしさがある。宇宙に手が届くんじゃないかとか、惑星一つくらいなら自分の手で動かせるんじゃないかとか、そういう悲しき幻想を、私は彼らの前でなら夢見てしまう。

無題

帰省が終わる。ほぼ3週間だったがやはり想像以上に早かった気がする。東京に戻ったらバイトに追われ、サークルに追われ、何よりも春学期からの講義に追われるだろう。仮の時間割を組みながら、これは本気で頑張らないとまずいなと思った。個人的にやりたいことは他にもあるし、積みまくった本をもっと消化なきゃいけないし、正直なところ卒論のテーマだってそろそろ真剣に視野に入れたい。しかも自分は新三年生なので、就活なるものにも目を向けなければならないらしい。この前初めて他己分析を依頼されて、もう始まっているんだなとなんとなく嫌な気持ちになりながら深夜テンションで提出した。翌朝になって、書いたことにちょっと後悔したりしたけど。

 

自分は何がしたいのだろうか。一年前よりも、ずっと漠然とそんなことを考えている。多分、少し焦っている。

帝都番外編

帰省してからずっと、あまり落ち着かない日々が続いている。それでちょっと何もする気が起きなかった。そもそも同じ屋根の下に何人もの人間と暮らすことが8ヶ月ぶりとかであり、それだけでも1日の過ごし方みたいなものは少しは変わってくるわけだが、そういう生活リズムだけの話ではない気がする。ベッドに敷かれた布団が硬い。これは東京の家の布団はマットレスが厚いせい。髪の毛がまとまらない。これはいつも使っているのと違うシャンプーを使っているせい。家族との話にもやっとした終わり方をすることが多い。これは東京で自分がいつも話す人らと家族との文脈が大きく違うせい。こういったことは今回の帰省で初めて感じたというわけではない。これまでの帰省でもそう感じたことはあったが、だけどそれは懐かしいわ〜という実家への安堵感に落ち着くことが多かった。これまでの自分はこうやって過ごしてきたんだと、どこかではっきりと認識することができていて元の巣に帰ってくるという気持ちが強かった。

 だが今回の帰省はそれが少し違うらしい。そういう諸々の違和感を感じることが心地よさに繋がることなく、微妙な居心地の悪さをどこかで感じてしまっている。町中を歩いてみてもそうで、かつての自分と関係のあった建物とかを見ても、それと関わりを持っていた頃の自分をあまり思い出すことができない。現在の自分を過去から位置付けることなく、心のどこかで、過去を過去として受け入れきってしまっている自分がいる。

 それくらい今回の帰省までの8ヶ月は、時間をそれ自体以上に引き伸ばしてしまったのかもしれない、と思った。過去が現在から遠ざかっていく。予備校に通っていた頃、現代文の教師が言っていたことを思い出す。誰もが上京したばかりの頃は「実家に帰る」というのに、いつしか「東京に帰る」と言い出す。その当時は言っている意味が分からなかったし、今でも東京に帰るとは中々言わないが、それでもその言葉の機微をちびりと味わった気持ちでいる。

 実質2週間程度の帰省の半分が終わったところである。そんなことをそぞろに考えながらもあと3日とかで東京に戻るとなると急に寂しくなるのがオチなのは正直分かっている。みんなに愛されているのもすごく分かっている。それでもなんだか今回の帰省は色んなものへの距離がうまく保てない。ちょっと寂しい。

 

真夜中に書くならもっと甘いことを書きたい。恋とか、チョコレートの話とか。

例えば倉庫では

バイトの時間を持て余している。その日届いた荷物を社員に確認を取って仕分けるという業務内容なので、午前の配達が来ない限り、前日からの引き継ぎがない限り、そして社員が現れない限り、しばし空白の時間が訪れるのだ。僕たちアルバイトは10時に業務開始だというのに、大半の社員は正午過ぎくらいからポツポツとやってくるし、逆に朝からちゃんといる社員は17時くらいにはもう帰ってしまっている。いわゆる「業界」の人間というのはそういうものなのだろう。

 

そういえば3月2日、秋学期の成績が返ってきた。内容はと言うと可もなく不可もなくだと思う。興味のある授業はそこそこに吸収できたつもりだし、逆に興味のない授業は単位を落とさないギリギリのラインを死守できた、それが目で見て分かるような成績だった。そもそもGPAという制度に対する欺瞞が入学当初からあるのでなるべく気にしたくないのだが、自分を数値化されることにはどうも敏感になってしまう。A +を4個、Cを5個取る人間もいれば、Aを7個取る人間もいるわけでそれが同じ数値に収束するシステムに信頼できるはずがない。そう思いながらもしぶしぶ成績表を眺めていると、一月前の期末期間を思い出していた。本当にレポートが書けなくて困った。発想云々も勿論問題なのだが、それ以上に文章が書けない。その文で自分が言いたいことがいくつかあって、それを順接とか逆接とかを計算した上で整えて分かりやすい一文にする、この過程があまりにも踏まなくなってしまっていることに気づいた。結局その場では時間がないことを言い訳にしてノリで逃げ切ってしまえたのだが、これはかなりショックだったし、春学期の期末期間も同じ理由で発狂寸前になっていたことを思い出した。個人的な感覚では、一年の時はそこまで病むほど文章を書くことに難儀していなかった気がする。そこには何を言うべきなのか、何を言わないべきなのかという分別の解像度のレベルの違いがあることは否めないが、多分それだけの話ではない。おそらく自ら文章を書く機会が格段に減っていることにある。そもそも文章は言葉のコラージュみたいなものなので、全くとして新しい文章みたいなのは存在しにくい。だから僕たちが書く・話す言葉は基本誰かの受け売りだしそれはそれでいいはずだから、何かを読むことでそこから言葉を獲得して、自ら何かを書く経験をしている。僕の場合、読む文章が減ったという感覚はない(そもそも多くないし)。一方で何かを書く行為が減ったという感覚はある。素材としての言葉を手に入れることができたとしても、それをつぎはぎした完成形としての文章を作らなければ文章は突然書けないんだなということを改めて学んだ。僕が書き記すことをはじめた理由の一つはそこにある。「書くために書く」、今の自分にはそれを繰り返す必要がある。